蒲 苅 橋 |
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宮原道路事情 |
明治22年(1889)7月に開庁した呉鎮守府の設置は、これまでの生活を大きく変えて いった。人口の動態をみても明治19年(1886)まで1万5000人前後で推移してきた 人口は、翌20年の1万8450人までになり、24年には2万3312人と急上昇する。 なかでも、明治19年には宮原村の人口が激減し、和庄村と吉浦村(川原石・両城地区) のそれが増加している。全国から呉浦に人口が流入したことに加え、宮原村の呉町に あたる部分を中心とする約77町歩が海軍用地に買収され、1023戸の住民が同年8 月15日を期して立退を命じられたことによる。これらのことは道路にも大きな影響を与 えている。即ち呉鎮守府の工事で、和庄村から宮原村をへて警固屋村にいたる道路の うち宮原村の部分が中断されたのである。そこでこれに代わる道路として、警固屋村字 瀬の向から鍋峠を越えて宮原村の山腹を迂回し、和庄村明法寺下にいたる新道が計 画され、明治20年に開通している。 |
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「呉の歩み」(平成元年3月呉市役所発行)の年表によると宮原関係の道路工事の様子は次の通りである。 | |||
明治20年 | 呉―警固屋間道路竣工 | ||
明治23年 | 宮原里道など道路竣工 | ||
明治40年 | 宮原下道路第1期工事(清水上道―下室瀬)竣工 | ||
大正 6年 | 宮原下道路第2期工事(中室瀬―赤羽根間)竣工 | ||
昭和 6年 | 呉―警固屋間道路のうち宮原通13丁目―警固屋通1丁目 | ||
改修 |
蒲苅橋事情(古老の話から) |
@ | この橋は、海軍工廠華やかなりし頃、延崎・大入方面から山を越えて早朝5時頃から たくさんの人が通ってきていた。 |
A | (蒲苅橋の「蒲」は「鎌」の誤りです)との指摘がある。確かに戦前に作成された地図に は、橋の上あたり一帯に「鎌苅山」と記載されているものがある。昭和20年代の中頃、 木の橋からかけかえた時、うっかり間違えたらしい。 |