蒲  苅  橋
【所在地】 呉市宮原11丁目165
【交通機関】
 呉駅より市営バス鍋桟橋行きにて
 「宮原11丁目」又「坪内小学校下」
 下車 徒歩5分
宮原道路事情
明治22年(1889)7月に開庁した呉鎮守府の設置は、これまでの生活を大きく変えて
いった。人口の動態をみても明治19年(1886)まで1万5000人前後で推移してきた
人口は、翌20年の1万8450人までになり、24年には2万3312人と急上昇する。
なかでも、明治19年には宮原村の人口が激減し、和庄村と吉浦村(川原石・両城地区)
のそれが増加している。全国から呉浦に人口が流入したことに加え、宮原村の呉町に
あたる部分を中心とする約77町歩が海軍用地に買収され、1023戸の住民が同年8
月15日を期して立退を命じられたことによる。これらのことは道路にも大きな影響を与
えている。即ち呉鎮守府の工事で、和庄村から宮原村をへて警固屋村にいたる道路の
うち宮原村の部分が中断されたのである。そこでこれに代わる道路として、警固屋村字
瀬の向から鍋峠を越えて宮原村の山腹を迂回し、和庄村明法寺下にいたる新道が計
画され、明治20年に開通している。
「呉の歩み」(平成元年3月呉市役所発行)の年表によると宮原関係の道路工事の様子は次の通りである。
明治20年 呉―警固屋間道路竣工
明治23年 宮原里道など道路竣工
明治40年 宮原下道路第1期工事(清水上道―下室瀬)竣工
大正 6年 宮原下道路第2期工事(中室瀬―赤羽根間)竣工
昭和 6年 呉―警固屋間道路のうち宮原通13丁目―警固屋通1丁目
改修
蒲苅橋事情(古老の話から)
@ この橋は、海軍工廠華やかなりし頃、延崎・大入方面から山を越えて早朝5時頃から
たくさんの人が通ってきていた。
A (蒲苅橋の「蒲」は「鎌」の誤りです)との指摘がある。確かに戦前に作成された地図に
は、橋の上あたり一帯に「鎌苅山」と記載されているものがある。昭和20年代の中頃、
木の橋からかけかえた時、うっかり間違えたらしい。