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校区と環境 |
本校は、呉市街地西部の二河川下流西岸と呉湾に沿った海岸通りから山の手斜面にかけて校区が広がっている。
平坦地には、商店、小工場、病院などが建ち並び、その中央部を国道31号線がL字に、JR呉線が弧状に走り、交通量がかなり多い。
また、北西から西の斜面には、びっしりと住宅が建て込んでいる。
自然環境としては、朝日のよく当たる町として知られるが、いわゆる「街」の中の学校だけに子どもにとって、特に恵まれた自然環境とはいえない。
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それでも、呉では2番目に大きな川である「二河川」の下流が校区であり、その河口の西は全て人工の海岸線ではあるが、海に面しており、また、学校近くには、急峻で近づき難いが山もある。
最近では、このような両城の自然の中での子どもたちだけの活動は、いろいろ危険を伴うということですすめられないが、大人同伴での活動は十分に可能である。
人の手が入りぎてはいるものの、河原の様子や川底の石の様子、海辺の生き物、竹林、どんぐりなどが取れる雑木林、野生の草花、等々、生活科や理科学習などで必要な素材は、まだ備えているところである。
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明治19年、呉に、横須賀についでわが国2番目の軍港として海軍工廠が作られると、全国各地から多くの人々が移り住んできた。
文政年間に埋め立てられた二河川下流にある校区には、海軍工廠がつくられるにあたって土地を接収された宮原村からの集団大移住があったり、その家族の住宅建築と人の波で、町は急激に膨れ上がっていった。 |
また、呉が軍の重要関連施設として厳しい監視下にあったため、一般の市民生活に密着した食料、生活関連物資および日常雑貨品は、呉港から西にある川原石港に陸揚げされるようになった。
こうして、校区である海岸通り一帯には、問屋が軒を連ね、三条通には商店街が形成されていった。人々の往来も以前にも増して多くなり、両城地区が活況を呈するようになった。 |
ただ、ここ数年は呉市の中央部、呉駅周辺に大型スーパーや百貨店の出現があり、やや、盛況を欠く状況もある。
本校は、明治41年4月1日、安芸郡の郡役所跡地(当時約200u)に創設された。
それまでは隣の五番町小学校や港町小学校に通っていたが、創立にあたって、916名(男子605名、女子311名)の児童と11名の職員が2棟14教室で授業を始めた。以後100年間、戦災で校舎を焼失するなど、幾多の苦難を乗り越え現在に至っている。
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地域の学校(教育)に対する愛着(関心)は強く、「地域ぐるみで子どもの教育を」と地域にある諸団体、諸機関の学校への理解と協力、そして期待も多大なものがある。
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